他人の顔に「×(バツ)」がつく心情、聲の形の主人公石田君と私
映画公開から2年…
映画が公開されて、はや2年…地上波初放送されるということで、「もう一度見られる!」とウキウキしております。こちらの記事は、私が2年前に映画を見に行った時の簡単な感想になります。2年経過すると、やはり感じること、考えることも違うと思うので、もう一度キャラの感情などに注目して、見直したいものですね。
「聲の形」を見てきました。
2016年9月17日公開だった「聲の形(こえのかたち)」を見てきました。全体の感想は上手な人にお任せして、私はその中で最も気になった「主人公の他人の見え方」について、書こうと思います!
他人の顔の見え方に注目。
映画にこんな場面が何度も出てきます。
他人の顔に「×」のシールが付いたり、剥がれたりするシーン。
主人公は、クラスメイトや他人の顔が見えていても、見えていないのです。
主人公は人の顔を見ず、下を見て歩く方が楽だと言います。
私にもそんな時期があったなぁ…なんて、共感してしまいました。
共感するところ、そこじゃないかもしれないけれど。
今は下を見て歩くほどではありませんが、人の顔を見ると、やっぱり被害妄想がやみません。
(あの二人、こっち向いて笑ってる。私のこと笑ってるんだろうな。)
(あの集団、向こうに行っちゃった。避けられた。)
顔を見てしまうと、その人がどんな表情で何をしていようが関係ない。
映画を見ていて、主人公と私を重ねてしまいました。
映画が進んでいくうちに、「×」は剥がれていきます。
しかし、一度はがれた「×」でも、もう一度貼られてしまうこともあります。
気持ちに波や迷いが出てくる、主人公のその気持ちにまた共感。
私もたまに、関わったことのない人に対して見えないふりをしてしまうことがあります。
頭の中で勝手に他人の顔を黒く塗りつぶしたり、透明人間にしてしまったり。
見たくない、見ないで。
そうすると、かなり楽なのです。
無駄なエネルギーを消費しなくて済む。
でもね、そうしてると少し寂しいの。
優しさ、温かさが欲しくなるのよね。
主人公は顔を上げた。
全ての「×」が剥がれた。
見方が変わった。
世界が変わった。
きっちり完結しない終わりにモヤモヤしつつ、最後はすっかり引き込まれてしまいました。
まとめ
…この文章だけじゃ、全く「聲の形」の魅力が伝わらないですね。
ひとりごとになってしまったな~
この映画を通して、今あるこの感情を吐き出したかったんです。
気になった人は、「聲の形(こえのかたち)」見てください。
本当は私、京都アニメーションの絵が大好きで映像を見に行ったんです(;´∀`)
いやー映像ほんとキレイ。素敵でした。さすが京アニ!
結弦くんかわいい!
ではでは、
あさひでした~(*‘∀‘)